古川勝とは
幼少期 前畑秀子との出会い
古川勝は、1936(昭和11)年和歌山県橋本町(今の橋本市)にある自転車屋で生まれました。ちょうど前畑秀子選手がベルリンオリンピックで優勝した年に生まれています。
橋本中学校の水泳部のとき、たまたま帰郷していた兵藤(前畑)さんに平泳ぎをほめられ、やる気になったと本人が述べています。
【写真】(左上)古川弘[兄] 中2、(中上)下条 中2、(右上)稲本
(下左)辻田 中2、(下左2)玉沢 中2、(下中)有川 中1、(下右2)竹谷 中2、(下右)古川 勝 中1
青年期
記録の更新
1952(昭和27)年、橋本高校の2年生の時に、100m・200mで日本新記録を出しました。当時、バタフライは平泳ぎの中にふくまれていて、古川は両方の練習をしていました。高校3年生のときに平泳ぎでのバタフライは禁止されましたが、オーソドックスな平泳ぎで、インターハイや国際大会で優勝しました。
その後、日本大学に進学し、ベルリンオリンピックで前畑選手と同じ200m平泳ぎで優勝した大学の先輩、葉室鉄夫(はむろてつお)さんから潜水泳法でないと世界に勝てないとアドバイスを受けました。肺活量が人の倍以上あった古川は、潜水泳法の練習をして、独自の潜水泳法を確立し、大学生時代に何度も200m平泳ぎで世界記録を出しました。古川の泳ぎは、スタートしてから45mもぐって、ターンの手前でうきあがり、それ以後は2かき1呼吸の泳ぎでゴールしました。「潜水泳法の古川」として世界的に注目され、当時のアメリカ原子力潜水艦の名前にちなんで「人間ノーチラス」ともよばれました。
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オリンピック出場
金メダル獲得!
1956(昭和31)年、大学3年生の8月、オリンピック選考会を兼ねた日本選手権では、100m、200mとも優勝し、9月の学生選手権では世界記録をさらにぬりかえ、古川は日本代表選手に選ばれました。
12月3日、メルボルンオリンピック男子200m平泳ぎ予選が始まりました。古川の組にはデンマークの元世界記録保持者グライエがいました。スタートからグライエにリードされましたが最後の15mあたりで逆転し、1位で予選を通過しました。
12月6日のメルボルンオリンピック大会決勝戦が始まりました。決勝に残った8人のうち7人は潜水泳法でした。グライエが先頭に出て、2位の古川を体半分リードして50mをターンしました。古川はじわじわ差をつめて、100mのターンでならびました。100mを過ぎてからグライエはスピードが落ち遅れていきましたが、ソ連の無名選手ユニチェフが出てきて、150mで古川に追いついてきました。ラスト20mあたりで古川は潜り、全力のラストスパートに入りました。そして、2位以下の選手とぐんぐん差を広げ、200m平泳ぎで優勝しました。タイムは2分34秒7。オリンピック新記録でした。
潜水泳法は、古川がオリンピックで優勝した後に、公式大会では禁止されましたが、翌年の大学4年生のとき、通常の平泳ぎでも、400mメドレーリレーで世界記録を出しました。
その後
後進の育成へ
大学卒業後は大丸百貨店に勤め、1962(昭和37)年まで社会人選手として活躍し、その後は仕事に励みしばらく水泳から遠ざかりましたが、1991(平成3)年、キッポ-フィトネスクラブの校長を務め、後進を育成・指導しました。
1991(平成3)年に橋本運動公園内に新しいプール(前畑・古川記念プ-ル)が完成した時には、兵藤秀子(旧姓・前畑)さんや城一枝(旧姓・小島)さんと出席し、模範水泳を披露されました。その2年後の1993(平成5)年11月21日、57歳の若さでなくなりました。
2019年(平成31年)、古川さんの同級生(26会)が古川さんの 偉業を讃え、母校橋本中央中学校の中庭に記念碑を建立しました。今 日も後輩の活躍を見守ってくれています。
お知らせ
- 2021年01月22日
- 前畑秀子並びに古川勝に関する資料については、JR/南海電鉄橋本駅前のはしもと広域観光案内所にて展示しております。ぜひお立ち寄りください。
- 2021年01月22日
- 古川勝のホームページを公開いたしました。
受賞歴
1954(昭和29)年 | 朝日スポ-ツ賞を受賞(1954年~1957年4年連続) |
1955(昭和30)年 | 日本スポ-ツ賞を受賞 |
1981(昭和56)年 | 国際水泳殿堂入り |
1991(平成3)年 | 橋本市教育功労賞を受賞 |
1993(平成5)年 | 紫綬褒章を受ける |
2001(平成13)年 | 橋本市名誉市民の称号を贈られる |